私の血のつながらない本当の姉のこと2
前回のつづき
夢を見ていた。
お姉ちゃんの膝で私は微睡んでいたみたいで、目を覚ますとお姉ちゃんは私に微笑みかけながら口を開いた
「まゆ、私は先に行くね。あなたはもう少しこっちでがんばりなさい。もうじきあなたも16歳になるんだから」
お姉ちゃんはそういうと立ち上がり、私から離れていった。
私は後を追おうとしたが足が動かない。
お姉ちゃんは最後に一度こちらを振り向き私に手を振ると、光の中に消えていった。
そこで私は目を覚ました。
朝になっていた、起き上がると私の肩から誰かがかけてくれたであろうブランケットが滑り落ちた。
結論だけ言うと、お姉ちゃんは明け方、私が夢を見ていた頃に息を引き取っていた。
その後私はお姉ちゃんの死に顔を見たはずなのだが、まったく記憶がない。抜け落ちている。
お姉ちゃんの両親は他界していたので、午後にはお姉ちゃんの叔母夫婦が地方から駆けつけてきた、私は叔母夫婦に事情を話し、その後やってきた警察にも事情を話した。
叔母夫婦はお姉ちゃんのことを(というよりもたぶんお姉ちゃんの母親のことを)嫌っているらしく、私もすぐに用済みとなり追い出された。実際にはお姉ちゃんと血の繋がっているわけでもない、戸籍上はアカの他人に過ぎない15歳の私にはどうしようもなかった。
私は叔母夫婦に渡された1万円を片手にあの部屋へと帰った。
不思議なことに涙はまったく出なかった。実感がわかないのか。それとも心が死んでいるのか。
呆然としながらも私は昨日のままの散らかった部屋をある程度片づけて、部屋を出る準備をした。残念ながら、祖母の家に戻るという選択しか今の私にはなかった。
一通り終えると空腹を覚えたので、部屋にあったカップ麺にお湯を入れた。
3分待っているとお腹が鳴った、そこには生きている実感があった。
食事を終え部屋を出ようと忘れ物がないか部屋を見渡すと、お姉ちゃんの筆跡で表に私の名前の書かれた封筒が落ちているのが目に入った。開封すると、中には便箋3枚に及ぶ、お姉ちゃんから私へのメッセージが書かれていた。
私はそれに目を通しながらボロボロと涙を流した。便箋にはいつものように優しさが溢れていた。私は便箋を胸に抱えて号泣した。
あれからもう3年が経った。まだ3年しか経っていない。とも言えるのだろうか。
私もあれから変わった。成長したというべきだろうか、それともより歪んだとでもいうべきだろうか。
これからも生きている限り私は常に変化し続けていくだろうし、昨日の自分≠今日の自分≠明日の自分だと私は思う。
絶対的な真理などないのだから、昨日と今日と明日で言動に一貫性がなくても、それが人間なのではないかと私は思う。
絶対に軸がぶれない人間などそうそういない。
もちろん私も軸など持っていないし、言動に一貫性などない。
常に思いつきで生きているタイプでもある。
昨日「死ぬ死ぬ」と騒いだのに、今日はケロッと生きていたり。
ODはやめると医師と約束した翌日にはODをして運ばれたり。
そんな私がどれだけ時を経ても変わらないと言えるのは
あのお姉ちゃんの血は繋がらないが本当の妹であるという事実だけではないだろうか
私は今でも、お姉ちゃんの妹であったということにだけは誇りを持って生きている。
私の血のつながらない本当の姉のこと
今日は、先ほどセックスをした後、微睡んでいたら久しぶりに夢に出てきたMさん(以下お姉ちゃん)のことを書こうと思う。
お姉ちゃんと私の出会いは某病院の閉鎖病棟だった。
私は自傷とPTSDによるフラッシュバックからの幻覚、幻聴が激しかったのでその病院の閉鎖病棟に措置入院させられた。
そこは古い建物だった、窓は4、5センチしか開かなく、廊下への鍵も常に施錠されていた。
1日に6回だけ外の空気を吸うことができる時間が設けられていた。
私はその時間になると、外のベンチに腰掛けて木々や花々を見つめながらぼーっとするのが日課で、その日もぼーっと花壇の花を見ていた。
すると「ここ、いいかな?」と言って隣に20歳くらいの女の人が腰を掛けた。
それが、お姉ちゃんだった。すごく綺麗で、線の儚げなひとだった。
私たちはそれからすぐに打ち解け、よく話す間柄になった。私はいつの間にかその人のことをMさんではなくお姉ちゃんと呼ぶようになったが、彼女はそれをすごく喜んでくれて、私のことを本当の妹のようにかわいがってくれた。
お姉ちゃんは21歳で、一昨年までOLをしていたが、去年妊娠して、結婚をしたらしい。
しかし、お腹の子を流産してしまい、田舎の旧家だった夫の実家と折り合いも悪くなり離婚、そのすぐ後に鬱病を発症して、自殺未遂を起こし、ここに入院することになったという話だった。
私はそんな彼女に、いろいろなことを相談したり、教えてもらったりした。
少し経つと、彼女の症状は寛解してきて、開放病棟に移ることとなった。
残念ながら私はまだ閉鎖だったのであまり会う機会もなくなってしまった。
その後、安定してきた私が開放病棟に移るのとスライドするように、お姉ちゃんは退院することになった。私たちは別れを惜しんだが、連絡先を交換し、私が退院したら会いに行くという約束をして彼女は退院していった。
その後2週間ほどで私も退院することになった。未成年である私の身元保証人は祖母だったので、正式には祖母宅に帰ることになったのだが、私はあの祖母からはひどい目にしか合わされて来なかったのでとても憂鬱だった。悩んだ私は、そのことをメールでお姉ちゃんに送るとお姉ちゃんから「うちにおいで」という返信がきたので、退院するとその足でお姉ちゃんのうちへ向かった。
お姉ちゃんは暖かく私を迎えてくれた、しかし、やはり当座の生活費は必要なので、私は普通のアルバイトを探したがなかなか難しそうだった、そこで私は前のようにセックスワークをしようとしたが、お姉ちゃんはそのことを聞くと私を初めて叱った
「あなたは私の妹なんだから、変に気を使ったりしないで、おとなしくお姉ちゃんに甘えていればいいの!私が何とかするから!」
私の目から出た涙は止まらなかった、私はお姉ちゃんと一生一緒にいようと思った。
それからは、狭いアパートでのお姉ちゃんの障害年金と貯金を少しずつ切り崩しつつの慎ましやかだけれども、私の人生でもっとも幸せな1ヶ月半だった。
私たちはもはや本当の姉妹よりも、姉妹だったかもしれない。
その幸せな毎日が変わったのは、お姉ちゃんがファミレスでアルバイトを始めるようになって、あの男と出会ってからだった。
お姉ちゃんは近所の某ファミレスで働き始めた。
案の定お姉ちゃんは、男性社員のおじさんに目をつけられた。
お姉ちゃんはその社員の告白を拒否した。
まもなく、セクハラ、パワハラが始まった。
お姉ちゃんは私には事情を話さず一人ですべて抱え込んでいたようだった。のんきな私はそのことに気づかず、お姉ちゃんに買ってもらった参考書で高認をとるために小学校の範囲からの復習をしこしことしていた。
お姉ちゃんはバイトをやめた。
そのへんからお姉ちゃんは少しずつおかしくなっていった。
私のために買ってきてくれたぬいぐるみに、自分の流産した子につけるはずだった名前をつけて独り言をぶつぶつ呟いていたりしていた。
私はお姉ちゃんを一人にしておくのは心配だったのだが、お金の心配もあったので、デリヘルで働くことにした。
忙しさの中で、私はお姉ちゃんと生活リズムもずれてしまい、あまり話さなくなってしまっていた。
そんなある日、深夜にうちに帰ってくるとバスルームでシャワーの音がしていた、お姉ちゃんが深夜にシャワーを浴びることはあまりないので珍しいなと思いつつも出てくるのを待つことにした。
しかし15分経っても出てこない、しかもお姉ちゃんの動いてる音がしないことに私は気づいた。嫌な予感がした。私は急いでバスルームの扉を開けた。するとお姉ちゃんは腕を包丁で思いっきり切ってシャワーに当たりながらぐったりしていた。しかも周囲にはウィスキーの空き瓶と処方されてるお薬のシートが大量に散らばっていた。私は急いでお姉ちゃんのノドに手を突っ込んで吐き出させようとしたが、なかなか吐き出さない。
慌てながらもなんとか救急車を呼び、お姉ちゃんの体をタオルで温めつつ作業を続けた
お姉ちゃんはなんとか吐き出してくれたが意識が戻らない。
私は何度も何度も喉の奥に手を入れながら声をかけた。しかしお姉ちゃんの意識は戻らない。そこにやっと救急車が来て、お姉ちゃんは病院に緊急搬送された。私もついて行ったが、病院についてICUにお姉ちゃんが運ばれたあたりから記憶がない。
恥ずかしながら書きながら涙が止まらないし
長くなるので次回に続きます。
はじめましてせかい
今日から『ブログ』というものを始めてみようと思った。
ではまず、ブログってなんだろう?
ブログ (blog) は、狭義にはWorld Wide Web上のウェブページのURLとともに覚え書きや論評などを加えログ(記録)しているウェブサイトの一種である。「WebをLogする」という意味でWeblog(ウェブログ)と名付けられ、それが略されてBlog(ブログ)と呼ばれるようになった (Wikipediaより拝借)
らしい、また一つ勉強になった。
こういうレベルの話の時はWikipediaって結構使えると私は思う(笑)
まあ簡単にいうとWEB上公開型日記兼自由帳みたいなものかな?
だとしたら、そもそも自分の考えたことを書き出すことをあまりしない人間である私にはなかなか使いづらいものかもしれない。
私はすごく筆不精な人間だ。なぜなら私の字はハイティーン女子としては恐ろしく汚いから(笑)
どれくらい汚いかというと家庭教師先のJKに「男の子の字みた~い、かわいい!」って言われてしまうほどだ(´;ω;`)
もともと手先が不器用だからというのもあるけど、数年前にOD(オーバードース)の結果左手が満足に動かなくなった時期があって、その時に元々左利きだったのを右利きに直したからという理由も大きいと思う。
カウンセリングの一つの手法にカウンセラーと交換日記をするというものがあるけど、私の場合は1ヶ月で挫折した過去があるくらいにはひどい。
最後には毎日の天気と気温と食べたものだけを羅列した小学生の夏休みの日記未満のものになってしまっていてカウンセラーにはもちろん呆れられた(笑)
まあ今はPCも持っているし、字を書く必要はないので、不慣れなタイピングではあるが、なるべく頑張ってみたいとは思っている。
しかし、それにしてもネタがない。
最近の私は家と大学を往復しているだけだし(しかもここ2日はその大学にも行かずに1日中引き籠っている)残念ながら趣味の読書もTwitterに取って代わられている。
まさかブログでまでエロネタを書き綴るわけにはいかないと思うので、
Twitterのログイン時間を減らすというのがもっとも手っ取り早い方法かもしれないが、
私は「一度はまったことは飽きるまでやめられない」という典型的な発達障害の要素を持っているので、たぶんあと1ヶ月くらいはTwitterに費やす時間を減らすことはできないだろう。
だから当分は、気が向いたときにつまらないことをつらつらと書き綴るだけのラクガキ帳状態になってしまうかもしれないが、ご容赦ください。
ADHDのアスペルガーなので、「環境の急激な変化についていけない珍獣」みたいなものだとでも認識して見守っていただけるとすごく助かります(笑)